(入院前)腫瘍発見〜あれからと今と
医師「腫瘍が2つあります。大丈夫かと思いますが…取りますか?」
ミー「…はい、お願いします」
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原因を探せば幾らでもある。
今年の夏は暑かった、暑いのは苦手なんだ。
仕事が忙しい。人生で一番忙しい。幸い、仕事の内容や職場の仲間には恵まれていて、そういうストレスはないんだけれど、労働時間に比例するストレスは一定程度あるのだろう。あまり自覚がないのも問題かもしれない。入院前の退勤時間は午前0寺を超えていたっけ。
ただ、一番の原因は、明確に自分自身で、あの日からズッと責め続けていること。自分を。
過ぎた現実、事象は1回しかない。
ただ、これはもう、自分のクセなのだけれども、基本的にあらゆることを反省・検証し、次を迎えるようにしている。
何か過ちを犯したら、反省し、改善して次に進む…PDCAサイクルというか、そうしないと生きる意味がないと強く感じている。
だから、ずっと考えている。
どうすれば良かったのか、何が最適解だったのか
小さいところでは、仕事も毎日そうで、職場を離れたら振り返り。
あ、マズイなと思ったら、次の日には「ごめん、間違ってた。こうしよう」ということも多くて、周りから笑われることも多い。
でも、それが性分だ。
ただ、あのときの正解は未だにわからない
だから、繰り返す、同じシーンや同じ日々を。脳内でリピート再生
毎日検証し、後悔し、答えが出ないから責め続ける
その繰り返しが、もう3年以上続いている。
これがもの凄いストレスであることは自覚しているが、これが私の永久機関なので死ぬまで止まらない。
それでも、時間が解決する部分は少なからずあり、当初の衝動的な思想や行動は減った。
「自殺」も何回か考えたけれど、なかなか楽に死ねる方法というものがなかったり、遺体が綺麗にならない可能性が高いこと、後始末で迷惑をかける可能性があることを考えると、踏ん切りがつかなかった。
ついでに言っておくと、自殺云々は、こういうことがなくても、元々の思想として肯定的。
20歳以下の精神未発達時期については反対だけれども、それ以外については、各々の事情があるのだし、自殺は『自分を殺す行為』なのだから、誰にも止められないし、考える力を手に入れた人間の選択肢としてアリだと思っている。自分の周りでそういう人が出ると悲しいけれどね。
また、「生」と「死」は等価値という言葉にもシンパシーを感じている。
死が終わりの一点であるなら、生は存在の連続性である。
つまり「なんとなく生きる」「ただ生きている」では、死の対局として相応しくない。
だから、生きる以上、死は近くに置いておきたい。そうでないと「生」きられないから。
この3年以上、未だに辛いことの反芻で、ただ生きている、なんとなく生きている。
これが芝居ができない一つの理由でもある。
生きるということは、究極的に自分の肯定だから。自分を肯定しない生き方もあるけれど、それは先述したとおり、死の対局にある生ではなく、弱い。それで現実を再構成し、客に披露し、感動や何かを感じてもらえるハズがないから。
そんな状況だけれど、要所要所で助けられることもあった。
意外なところがポイントになるのも面白い。
オードリーの深夜番組の素人さんの言葉だったり(詳細覚えてないw)、職場の人の言葉だったり、友人や家族やチコも🐶
最近読んで印象的なのは、同じ体験をした人達の言葉で「それはもう抱えていくしかない。だからこそ気づけることや、新しい人にできることがある」というもの。
解決できない…それでいいのか…そのまま抱えていくしかないんだな、ということがわかって、ちょっと楽になった。
夜になると、少しは考えてしまうけど、ちょっと横に置こうと。
そうしないと、自分の体を蝕んでしまうから。
そう思い始めた矢先の、今回の腫瘍発見だった。
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医師「コロナ対策として、入院初日にPCR検査するため、通常よりも入院期間長くなりますので」
ミー「わかりました…(そっちの方がちょっと恐いな…)」
(つづく)